えんどうさんは店のお客さんで、とても小柄なキュートなおじいさんです。
弘前のはずれから、いつも奥さんを乗せて、車でやってきます。
うちの駐車場はけたたましい道路の反対側にあるので、えんどうさんは杖をつき、他の車を手で止めながら渡ってやってきます。
私はえんどうさんに「かあちゃん」と呼ばれています(奥さんのことはなんて呼ぶのか、今度聞いてみよう)。いつもにこにこ来てくれますが、喘息もちなので、時にはマスクをしていたり、手に包帯を巻いて来たときもありました。
服装はいつもジーパンです。髪をちょんと後ろに結って、グリーンベレーのようなちょっとしゃくれたベレーをふだんは冠っています。迷彩ではなく黒っぽいやつ。
それがこの間来たときは、なんていうんだろう、鉢巻きみたいなの、紺色の芯地に白で素敵な模様が描いてあって両はじはフリンジにほぐしてある、模様は鳥に乗った天女の連続。
「えんどうさん、これどうしたの、すごくいいよ」「俺作ったんだよ、なんでも自分で作るんさ」「すごくいい、若い子に見せたら欲しがるよ、すごくいい、素敵だ」としばし私は見とれて触ったりしてました。ほんとにかっこいいんだ、その鉢巻き。
えんどうさんはこちら(青森)の生れではありません。とても不思議な言葉をしゃべるので、ときどき聞きとれない私は、聞き返したり、わかったふりをしたりします。意味がわからなくても、雰囲気(テレパシー)だけでやりとりしてるようなものです。電話で注文のときは意味不明だとかなり問題ありますが、じかに会ってやりとりをするときは、けっこうなんとかなるものです。それにしてもごつごつ滑る不思議な言葉です。
明るい人なのに彼がときどき淋しげに見えるのは、生きる時間が残り少ないからでしょうか?奥さんとはとても仲がよさそうだし、子ども達もそれぞれちゃんとやっているようです。それでもきっと淋しいことは誰にでもあるのだ(淋しげだけど暗くないのは天性の持ち前でしょうか、やることやったからでしょうか?)。もっともっとこの世で遊びたいのに寿命は変えられない、と、いつか私も思うのでしょうか?
私はえんどうさんが来ると、その瞬間、せいいっぱいサービスします。値段のサービスってんではありません。迎える、そして見送ることを、ちゃんとしなくちゃと思うのです。正直あぶなかしいので、ときには駐車場まで送ります。親切心なんて「それを言っちゃあおしまーい!」というか、そんなでなく、ありきたりですが一期一会を感じるのです。今度また会えますように、会えないならお互いの記憶にちょびっとでも心地よく残りますように。
あなたは生き物、私も生き物、生き物だらけのこの世界で、いろんな距離をもちながら出会う人たち。若い人はこれから、老いた人はあともう少し。
画房は、ともあれ表現したい人たちの行き来する場なのだと思います。絵具一本、筆一本という機会に言葉や表情を交すことを、人の自由とは何だろうとぼちぼち考えながらだいじにしたいと、時にしみじみ感じ入るのであります。