函館の「めがねのおばちゃん」は、訪ねていくといつも私の好きなガラナシャンパンを出してくれた。さきいかを好きなのもよく知っていて、時々港町ならではの大袋入りのをくれた。車に弱かった私は、さきいかを食べると酔いが軽減されるので(今考えると不思議)、車に乗るときにはしこたま食べた。
私は「めがねのおばちゃん」の人生を、全くといっていいほど知らない。
おばちゃんは一人暮らしで、繁華街の裏手でとても小さな呑み屋をやっていた。客は漁師や港で働く人がほとんどだったと思う。酔ってから、遅く寄る人が多かった。
何度かおばちゃんの家に泊まった。
といっても、呑み屋の2階の一間、6畳かそこらの簡素な部屋に布団を並べて寝た。
そんな時もおばちゃん自身の人生話は全くなくて、若かった私がああだこうだというのを、ただ聞く耳もって一緒にいてくれた。
心は迷わないのではないか。
その人の命に添うて、それは行くばかりなのだ。
心はぐちぐち言い訳も言わず、命が苦しそうな時も寄り添って、いいも悪いも言わず生きていようとするのだ。
めがねのおばちゃんについて、いい話も悪い話もきいたことのない私は、それでも彼女は心と命を添わせて生きたのだと思う。
たくさんの不本意な、あるいは自分で運んでしまった辛い体験もしたに違いないけれど、それについて不幸とも幸福とも決めつけず、流れ、暮らし、黙って死んだ。
彼女の人生について、もっと知ろうとすれば追究はできるのかもしれない。
でも、私のなかの記憶の場所はそれを欲さない。
子も物も、とりわけ残さずにこの世から消えたひとりの人。誰が彼女を思い起こすだろう。
私は思い起こした。
詳しいことなぞ知らないなりに、生きたその人を実在として覚えている。
で。突然であたりまえなのかもしれないけれど。
迷うのは心じゃないんじゃないか、と思う。
このことはもっと考えなきゃいけないのかもしれない。
でもともかく、あなたを思い出すよと、今日は言っときたいのだ。