実家からジョムソンの裕福な家に洗濯女として出されたビマラは、あまり仕事が過酷なので逃げてきたのだという。
家にも帰りたくない、帰ってもいやな顔をされるという。口減らしであったのだろう。
ポーター兼ガイドの心やさしい青年インドラとジョムソンを出発してまもなくから、少し離れてずっとついてきた少女がビマラで、やがてインドラが地元の言葉で話しかけた。彼もほんの片言の英語しか話せないので私にはまったく事情がつかめなかったが、ともかくそれから一緒に歩くことになった。
乾季のカリ・ガンダギの流れに沿って、私の背中の小さな娘と合わせて4人、トゥクチェまでがその日の歩行予定。ネパール人2人の足の軽さたくましさは真似ようもなく、私はたびたび彼らを待たせた。私の歩調を考えてゆっくり歩いてくれていたのだけれど。
その日その辺りを歩く観光客はほとんどおらず、静かな時間に水の流れと、ときおり私たちの話し声が響くばかりだった。
目を合わせると、ビマラは恥ずかしそうに微笑んだ。
やがて着いたトゥクチェの宿で、英語を話せるそこの娘さんから、ビマラの事情を聞くことができた。
それが先に書いたようなことだ。
ビマラはしばらくその宿で働くことになった。彼女は13歳ということだった。
このようなことは、当時のネパールではさほどめずらしい話ではなかったのだろう。
おそらくインドラが宿の女性たちにビマラの状況を説明し、女性たちも彼女と話して、雇うことはすばやく決定された。
「奉公先の人が私をこき使うの。あんまりひどいので私は逃げてきた」
「じゃあトゥクチェまで行って、仕事をさがしてみるか」
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「この子を働かせてやってくれないか」
「ちゃんとできるようなら雇ってもいいよ」
といったふうに。
ビマラはほんの小さな包みくらい持っていたか、記憶が定かではないが、ほとんど荷物らしい荷物はもっていなかった。
数日を共にしたインドラにしても、すべてはせいぜいポケットに入っているだけだった。
今もネパールに限らず、女性は酷使されるばかりの人生を送る国や地域は多いようで、自立を支援するプロジェクトもさまざまな地道な活動をしている。
そんな状況でも、多くの女たちはたくましく、少しの喜びを大きく笑って生きているようにも思える。
今頃ビマラは27歳くらいだろうか。
何人もの子持ちのおっかさんになって、つつましくても幸せに暮らしているだろうか。
ダンナと一攫千金をねらい、都会に出てぐわんばったりしている可能性もあるかな。